国政選挙は何を基準に選べばいいの?
1月27日から始まった衆議院選挙ですが、「与党にするか、野党にするかで迷っている」という声をちらほら耳にします。でも、そこまで強くこだわる必要ってあるのでしょうか。
よく思うのですが、組織の腐敗と言われるものの多くは、最初から悪意があったというよりも、人が流れに慣れ、空気に従ってしまうことで起きているのも環境としてあるかもしれないということです。「初心忘るべからず」と言いますが、多くの場合、最初の志や意気込みは、日々の慣習や力関係の中で、少しずつ薄れていくものです。
その背景には、同調圧力や、「長いものに巻かれていたほうが楽だ」という感覚、そして、自分のポジションの居心地の良さを優先してしまう人間の弱さがあるように思います。例えば、目の前に、きちんと食べられる魚が差し出されているのに、わざわざ「もっと大きな魚がいるかもしれない」と、荒波の海へ漕ぎ出す人は、そう多くはありませんよね。
だからこそ私は、政党そのものではなく、その中にいる人の考え方のバランスを変えることが、とても大事だと考えています。同じ政党の中でも、誠実でまっとうな考えを持つ人が増えれば、その政党の中の意思決定のバランスは確実に変わります。賛成か反対かは、結局のところ、どちらの意見が多いか、どちらの声が押し切るかで決まる場面が少なくありません。
自民党の裏金問題や、維新の国保逃れのように、ずるい考えをする人が多くなれば、「みんなやっているから大丈夫」という空気に流れてしまうもの。でも、同じ政党の中に「やってはいけない」「許してはいけない」と言える人が増えれば、良くない風潮を守る側の論理ではなく、改めようとする力が働くようになるはずです。
それに、どこの政党であっても、自分が感じている違和感や疑問を、国会の場でそのまま言葉にしてくれる人を見ると、「よく言ってくれた」と、気持ちがスッキリすることがあります。政治を担う場で、私たち生活者の不満や疑問を代弁してくれる存在は、やはり貴重です。
だから私は、「この人は国会にいてほしい」「権力の監査を任せたい」そんな思いで、個人にスポットを当てて選ぶという判断があってもいいと考えています。そうした政治家が増えていけば、国会の空気は、与党か野党かという枠を超えて、政党の内側から少しずつ変わっていく。
私は、そんな原理が働いてほしいと願っています。
選挙で委ねられているのは「団体」ではなく「人」
「誰を選ぶか」で政党の中身は変えられる
「みんなやっている」に流されない政治へ
こんな考えは実現が難しい理想論なのでしょうか。地方議会なら、「個人で政治」という考え方は、国政よりも当てはまりやすい面があるかもしれません。
なぜなら、地方は暮らしに直結する課題が多く、政党の看板よりも「その議員が何を見て、何を言い、どう動くか」が結果に結びつきやすいからです。
しかし、国政は、予算や法案、委員会運営など、仕組みが政党中心に組み立てられているため、「個人だけで政治を動かす」ことは簡単ではありません。ただ、それでも私は、国政であっても「誰を選ぶか」を個人の姿勢や実務力で判断する人が増えれば、政党の中身は同志の数で内側から変わっていくと考えています。
結局のところ、投票で民意を付託しているのは「政党」ではなく、一人ひとりの「個人」なのだという意識を持ってみて、投票先を考えてみるのもいいのかな、と私は思ったりしています。











