ごまかし上手な政治家のおはなし
議員の職務を全うするには、自分の言葉に責任を持たないと、人からの信頼を得られないということは当たり前のことだと思っていました。ところが、平然と自分が言ったことや、やってきたことを棚にあげ、今まで自分が反古な意見を言っていたにもかかわらず、まるで他の人が言っていたかのように自分の意見を平気でひっくり返して言える市議が存在します。
「それを言ってたのあなたですよ!」と何度心の中で突っ込むことがあったでしょうか。それって自分の過去の意見に批判していることになるような気がします。そういうことが普通に議事録にも残っている議会の中で発言がなされているのですから、まじめに聞いている方としたら甚だ付き合いきれないとなるわけです。
最近こう思うのです。ちょっと皮肉に聞こえるかもしれませんが、無神経に振る舞えて、過去の自分を恥じることなく、他人事と堂々と言ってのけれる厚顔無恥なぐらいの神経でないと、政治家はつとまらないのかな?と、本当にそう思う時があります。何故なら「小馬鹿にされている」のか、「自分の言葉をただ忘れている」だけなのか、茶番劇を見ているように感じることがあるからです。
これは芦屋市議会だけが特殊で、その中だけの話なのかなと思っていたら、全国的にどこでもそういう事が起きているということが、SNSの投稿などを見ているとわかります。例えば、説明責任を起こすような不都合な事態が起きたとします。その後の議員の行動パターンとして次のようなことがありました。
自分の信念を曲げることはできない
議論の場では特に、相手の意見を尊重して信頼できてこそ、合意形成が図れるのだと私は一貫しても思うのです。しかし、こんな状態では、「お互いを協調し合うのが議会」と言われても、どの言葉を信頼して一丸となれよいのかわからない気持ちしか湧いてきません。
むしろ芦屋市議会として出ていた結論に、その一員として同類に見られているとしたら「一緒にされたくない」という思いの方がどんどん強くなっていきます。一度ならまだしも、何度もそのような状態が変わらないようでは、これが議員体質なのだと思う他ありません。
誰もが自分たちの組織や自分の身を守ろうとするのは当たり前のことだと思います。全員が黙って多数に混ざり一緒になって事実を明らかにしなければ、悪いことも外に漏れることはなく、議会の批判も保たれます。連帯責任となり自分の評判も下げることになるからではないでしょうか。でも、偽りの中に混ざるぐらいなら、私は全体責任として芦屋市議会の評判を下げたとしても、その中で阻害されようとも、自分の信念を曲げることの方がよほど恥ずかしいと思っています。
最初はもちろん、新人議員だった私にとって他の議員の方々はみんな尊敬から入っていました。特にベテランの経験者の方の発言をよく聞き「やっぱりすごいなー」と思うことばかりで、参考にしていました。
ところが、回数が増えていくたびに、中身を理解できるようになればなるほど、それは話のテクニックだけの偽りの言葉だったという事が見えてくると、どんどんメッキが剥がれていくように心に刺さらなくなってきたのです。他の人の話を真剣に聞いていたからこそその言葉を覚えていて、その言葉がブレまくっているとうこともわかってしまうのです。
たとえそれが、多数決が選んだ組織の調和に動いていた答えだったとしても、私にはただの厚顔無恥にしか思えないのです。