都合の悪い事実は出したくない
立場が変わると人の意見も変わるものなのでしょうか。今まで「〇〇が悪い」「明らかにしろ」と、責めていた人が、いざ自分が同じような立場になると、「何で責任を取らないとあかんのだ」「事実を公表する必要はない」と、言う台詞を言い出します。
その一部始終を見てきて把握している第三者からすると「感情でものを言えるなら、物事は好き勝手に進めることができる。」と思ってしまうわけです。これでは、まじめに議論してきた人が「もう嫌だ」となってしまうのもわかります。だから結局「事実を言っても無駄なんだろうな」という判断をしてしまうわけです。
ある真実を主張している人には、それが本当のことだという思いがあるのかもしれませんが、それとは違う意見が上がってくると、途端に「間違っている!」と相手を批判しだし、自分の主張を押し付けようするのは違うように思います。裏のない人は、議論が感情論になっていることに気がつくようです。話し合いが難航してきた時に、矛盾点を指摘できる人がいると尊敬します。ちゃんと「事実はこうでしょ。」と順追って正し、話を整理してくれているからです。
でも、せっかくのその指摘も、大半の感情論の中にもみ消されて、跳ね除けられてしまうのがオチです。人は不安が先にある時に別の意見が入ってくると、自分の意見が消されてしまう気分になるのではないでしょうか。だから、どうしても否定的に捉えて感情論で聞いてしまうようになるのではないかと感じています。
例えば、新しい方針を決める話の時に、推進派、反対派の話が次のように分かれたとします。
A「〇〇だから、賛成」
B「〇〇だから、反対」
それぞれの状況は、真実の意見なんだろうと思います。でも、感情を抜きにして判断しなければいけないことなのに、事実は中々明確に他の人に伝えていないものです。
・現状の課題をしなければどうなるのか?
・対策を講じると改善すること
・これまでの経緯や守らないといけないこと
ここを抜きに話が進むことが多いと、不毛な話し合いをしているように私は感じてしまうのかもしれません。結果、それぞれの真実と真実がぶつかって、敵対心しか残らないことになりそうです。
「正論で論破されて良い気はしない。好き嫌いでものを決めたい。」という自然な感情に流される人が多いからではないでしょうか。こうなってくると、やはり、都合の悪い事実なんてどうでもいいことにされていると思わずにはいられない状況を目の当たりにします。
「人は何故言い合いになるのかな。」と考えたのですが、それは、守りたい自分の真実があって、それを「事実」としたいからじゃないでしょうか。