矢面に立つと標的にされるもの
他の議員が、倫理に反するかもしれないことをやっているのがわかったとします。問題提起として代表者会議で、協議を求めた方が良いということがわかっていたとしても、それを追及することに労力を使うことが、果たして自分にとっていいことなのか考える時があります。新人議員の私は迷います。何故かと言うと、議会全体としての調和を乱すことになると思われている方もいるからです。
問題提起をせず、静かに見過ごすことが、議会全体としての体裁を守り、合意形成を保つということであれば、わざわざ個々の問題を掘り返し、自分が矢面にたつこともない、となるのでしょう。「自分の印象も悪くなるよ」「仕返しをされるから気をつけて」と忠告をしてくれる方もいます。
これはどういうことかというと、足の引張あいが目立つ政治の世界で矢面に立つということは、いかなる事情があったとしても、攻撃を受けることを覚悟しなければいけないということを意味しているのだと思います。先輩の議員は、そのことをよく知っているから、矢面にたつことをあえてしないのかもしれません。疑心暗鬼になるぐらい、これまで議会内で一体どんな目にあってきた人がいるというのでしょう。
指摘することは攻撃ではない
もしかしたら、間違いを指摘するということは、ただの攻撃的な態度にうつってしまい、単に議員同士が揉めているとだけしか伝わらず、余計に議会のイメージがマイナスにうつることもあるのかもしれません。でもそれじゃ、誰かがやらなくてはなにも変わりません。私は、足の引っ張り合いをしているわけでも、したいわけでもありません。他に目を向けてやるべきことがたくさんありますし、何もそんなことに時間をかけなくてもいいと思うからです。
だけど、過ちがあるのにそれを有耶無耶にすることは、市民の方を欺むいている情報操作にすぎないと感じているのです。自分たちの体裁とか、議会のイメージを守る行為とはまた別の問題だと考えています。
そういう議員に限って、市長や副市長、市の職員にはとことん厳しく追及するものの、反対に誰からも指摘されない立場をいい事に、自分は過ちを認めずに誤魔化し続け許してもらえています。「他人に厳しくするならば、同じように自分にも厳しく」そうでなければいけませんが、身勝手なことをしていているのにそれを反省せず、市民の前では「自分を良くみせる。」そんなおかしなこと、私は見逃すことができきませんでした。何事も行き過ぎた行動はよくありません。
道理に反する悪意とは思っていない人の行為によって、代償を受けている相手がいます。だけど、問題提起として協議もされないのは、「言ったほう、やったほう」は、ますますその行為を繰り返すことになります。
いかなる議員であっても、そのことを議会全体として協議し、明確にするのが筋道をたてることであると私は信じています。そして、市民の皆様には、私の主張や言動をしっかりと理解していただけるよう説明し続けてまいります。
前置きがながくなりましたが、そう言う訳で議会全体で協議しておかなければいけないと思う内容があり、令和3年9月13日に代表者会議での協議事項を求める申し入れを、議長に提出しました。この事案が17日(金)に行われる代表者会議の議題にあがるよう、議長の公平で建設的な采配に期待したいと思います。