投票前だから先に伝えておきたかったこと
斎藤元彦知事が2024年に辞職し、その後に行われた知事選挙の折り返し地点を過ぎた頃、「兵庫県は人の心をもてあそぶオモチャじゃない!選挙本来の意義を取り戻すための本音⁉(2024.11.13)」と「兵庫県知事選挙の投票前日だから先に伝えておきたい選挙の意義⁉(2024.11.16)」というブログを残しました。
どうして私が、選挙の最中にこれを書き残しておこうと思ったのか。
それは、結果が出てからでは遅いと感じたからです。
どうしても、これまでに経験したことのない“異常な選挙の様子”を知ってほしかった。後からいくらでも言えるようなことではなく、いま、この瞬間に感じている違和感を記しておくことが、一番フェアだと思ったからです。
デマと感情に流されないために選挙の本当の意味を考える
知事選挙中、はっきり言って、稲村候補へのデマの書き込みの多さは、日に日にひどくなっていきました。どこから湧いてくるのか分からない虚偽の情報が、次から次へと拡散されていく。私が応援メッセージの動画をTikTokに投稿するたびに、事実に基づかない侮辱的なコメントが押し寄せ、同じ内容が何百件も書き込まれていくのです。他のSNSでも同じ状況でした。
斎藤氏を支持していないというだけで、私に対しても誹謗中傷のコメントが一斉に投稿される。
稲村陣営は「斎藤氏の悪口ばかり言っている」と言われますが、正直どこが?という思いでした。実際に不信任案を受けたこと、そして兵庫県が公に説明してきた経過をもとに、政治的な観点から説明しているだけです。選挙演説とは、これまでの体制の課題を伝えたうえで、新たな公約を語る場です。それのどこが悪いのでしょうか。むしろ、そうした経緯があってこそ、知事は辞職することになったのではないでしょうか。
そんな不満が日に日に募るばかり…
事実に基づかない発言をしているなら誹謗中傷と呼ばれても仕方ありませんが、私は一度もそんなことはしていません。言葉で攻撃してくる人たちは、まるで「推し」の評価が下がるのを必死で防ぐファンのよう。
政治の世界で、ここまで過保護に扱われる選挙を行う候補者が他にいたのだろうか…。異常さを感じざるを得ませんでした。誰かに何かを仕掛けられているかもしれない、そんな荒々しい選挙を手伝う渦の中にいました。
私が向き合っていたのは、『無責任に流される情報』と、それによって選挙本来の意義が損なわれている危うさでした。選挙は私たちの未来を決める重要な場であり、酷い言葉で誰かを陥れる場所ではありません。私たち県民が重視しなければいけないのは、事実に根ざした冷静な判断と行動だったはずなのに…。
これまで私が体験してきた地方選挙は、どれも穏やかなものでした。
無所属の私は、国政のような政党対立の激しい世界とは無縁の場所にいたのかもしれません。
今回の選挙では、Xで流れてくるSNS投稿を通じて、その様子を知ることが多くありました。立花候補の登場によって、罵声が飛び交い、聴衆が怒鳴り合う場面や、逮捕者が出るような騒動まで起きていました。
さらに、斎藤候補が「1人で駅立ちをしていた」という映像も、実際には撮影隊を引き連れて作り上げられたもので、「やらせではないか」といった書き込みを目にすることもありました。
どれだけの人が、私と同じような感覚を把握できていたのでしょうか。
私の目に映っていたのは、偽りの演出のなかで、騙し合い、怒鳴り合い、そんの中での選挙を繰り広げられていた。そんな混沌とした空気をつくり出していた張本人が、斎藤候補者という存在でした。
一方で、多くの人には別の物語が見えていたのかもしれません。
既得権益と戦い、怪文書によって辞職に追い込まれた“可哀想な正義の人”。
それでも諦めず、誰の助けもない中で一人立ち上がり、誠実な姿勢で向き合い、民意の心を導いた。政治を悪用する人を成敗してくれる“ヒーロー”として映っていたのかもしれません。そして、これこそが真の力で正義を勝ち取った、感動的な政治家の誕生。それが、111万の兵庫県民が次なる知事として託した“希望の光景”だったのだと思います。
私がその物語を知ったのは、選挙結果を通じてのことでした。「これまでにない選挙だった」と語られるのも、無理はないのかもしれません。
ある意味、組織に頼らず、民意の力だけで勝ち取った“新しい時代の選挙”を見せられたのでした。
ネット上で繰り広げられる『正義』の矛先が変わるとき
元知事を叩いていた人ほど、後になって「テレビに騙されてた」と言う。
でも悪いのはマスコミじゃない。情報の流されて、自分の言葉で人を追い詰めた、その本人たちです。私はむしろ、選挙が始まるまで斎藤知事の文書問題の内容をよく知らなかった。だから、批判する理由もありませんでした。
県民の多くは、「立花氏が真実を明らかにしてくれた」とそこに正義を感じ、その瞬間から、斎藤氏にも“正義の人”として目を向けられるようになりました。誠実で、潔白で、信頼できる人物、そんな印象へと変わっていったのです。
けれど当時の私は、別の感情でその光景を見ていました。
他人を蔑みプライバシーに関わることを、公の場で煽るように語る姿に、
どこか冷めた気持ちを覚えたのです。誰かを傷つけてまで、自分の価値を上げようとする。その行為に、私は少しも正義を感じられませんでした。
むしろ、正義の名を借りた“恐怖政治”のようなものを感じたのです。
選挙を通して見えてきた過激化する応援の危機感
私は、正常な選挙を取り戻したいという焦りを感じ始めていました。
そんな時、これまで見てきた一連の光景をアニメ動画で表現した投稿に出会いました。
「これなら現状をわかりやすく伝えられるかもしれない」――そう思った私は、その動画を引用して投稿することにしました。
ただその時は、作者が最後に書いていた
「悪事の限りを尽くして首になった知事が、卑怯な手を使ってまた知事になろうとしています」
という文面の意味を、深く気に留めることはありませんでした。
このときの投稿が、後に私を追い詰めようとする人たちに利用されることになるとは、この時の私は、思いもしませんでした。
この動画の投稿を選挙の投票日に行ったことで、
「斎藤知事を誹謗中傷した」「公選挙法違反だ」といった批判が広まりました。あえて言いますが、私は当日に行ってはいけない、「投票してください」と呼びかけていません。開き直るなら、候補者が不利になるような内容を投稿してはいけないという該当する規定もありません。
誹謗中傷だと問題視されたのは、実際には動画の内容ではなく、最後に表示された文面の部分だけをスクリーンショットで切り取られ、拡散されたことが騒動の発端でした。作者は、動画をSNSで共有・拡散することを許可しており、現に、アニメの内容も実在する映像をもとにしており、実際に起きた出来事を証明する動画も存在します。つまり、私が発信したのは事実であり、誹謗中傷ではありません。
実際にこの状況を目にしていない人がほとんどだったと思います。
その人たちからすれば、「なんてひどい作り話の動画だ」「斎藤氏を陥れようとしている」と受け取られたのかもしれません。
しかし、この動画によって斎藤氏が影響を受け、当選できなかったわけではありません。むしろ、この投稿が斎藤氏や立花氏の支持者に利用されてしまったことで、私が応援していた稲村さんの方がダメージを受けていたのではないでしょうか。結果的に、誤った形で拡散されてしまったことが、稲村さんに迷惑をかけてしまった…。その点について、私は悔み、稲村さんに対して申し訳ない気持ちで深く反省しました。
けれど、この投稿について斎藤知事に対して申し訳ないという気持ちを抱いたことは、その時も今も一度もありません。投稿した内容も、その行為も間違っていたとは、思っていません。
むしろ、一方の見方をすれば、
「悪事がなければ辞職することもない」。
情報漏洩やハラスメント、公益通報者保護法違反などが疑われる中で、
「卑怯な手」と言われたとしても、それを完全に否定するのは難しい状況だったのですから。
私は、どうしても“正しい姿ではない選挙戦”が行われていることを許せませんでした。人格否定のような言葉で平気で人を傷つけ、
対立候補の評判を落とすこと――それは、本来の「応援」とは言えないはずです。そのことに、少しでもいいから早く気がついてほしかった。
もう一つの投稿をめぐる経緯とお詫びの気持ち
投票日の前から、私は稲村さんの活動に関連する動画を紹介していました。
それは選挙当日にも投稿していたのですが、その投稿が思わぬ混乱を招いてしまいました。そのことで、結果的にご迷惑をおかけしてしまった高島市長には、心よりお詫び申し上げます。そして、稲村さんにも、意図せず混乱を引き起こしてしまったことを、重く受け止めています。
後に、そんな私のことを気遣い、心配してくださっていたとお聞きし、
自分のせいで混乱を招いてしまったのに、優しい言葉をかけてくださっていたことを知り、あの時、どれほど考えなしに軽率な行いをしてしまったのかと、深く後悔しました。
その後、私は他の議員から問責決議を受けることになりました。
これを率先して進めていたのは、斎藤知事を応援していた議員です。
それでも、ことを荒立たせず、弁明も反対もせずに受け止めたのは、
高島市長と稲村さんに対して申し訳ないという気持ちが大きかったからです。一方で、この件について斎藤知事に対して申し訳ないという気持ちは、一切持っていません。
この騒動については、問責決議案が出されるよりも以前に、ブログで説明と謝罪の気持ちを残しています。(2024.11.24)
仕組まれていた逆転劇。本当の真実は、再選後に始まっていた
私がこれまでに味わったことのない、政治への嫌悪感と絶望感は、
選挙の幕引きとともに終わるものではありませんでした。斎藤知事の再選は、むしろ“過激な県民の分断”の始まりに過ぎなかったのです。
「偽物の真実」が「本当の真実」にまさる…
まさに、そんな光景を見せつけられているかのような兵庫県政。
確かな情報さえもかき消され、事実を否定する声が次々と湧き上がってくる。
今ならはっきりと言えます。
あの選挙中に感じた“恐怖政治”のような空気は、
その後に起こる県民の分断の“前触れ”を予感していたのだと。
嘘に紛れた政治にうんざりしたからこそ、目の前に現れた「正義の人」に希望を託したのですよね。でも、その思いは、本当に実っているのでしょうか。今のように、斎藤知事をめぐって県民が対立し、互いを傷つけ合う兵庫県を、誰が望んでいたのでしょうか。明らかなことは隠さず、はっきりさせる。認めるべきところは認める。今こそ、本当の意味で兵庫県の将来、
そして社会全体の政治の在り方を真剣に考えていく時だと感じています。