議員って「何なの?」と思うこと(第三章)
議員の見立てで決まっていく将来像
議員が、言論の自由で好き勝手いうのは、与えられた責任の元に発言することだから良いとされています。ただ、あまりにもまちづくりにおいて、大勢の方に影響を及ぼしてきたと感じる言動には、目に余るものがあると感じてなりません。そのひとつが、南芦屋浜地区の小学校建設の突然の白紙撤回の時に、はじめてそれを感じました。
新しく小学校が建つことが目前に決まっていた時のことです。児童の学びを一番に考えた教育委員会としては、教育環境を整えるため新設の必要性を市長に要求されていました。また、県から引き継いで市としても、新たな埋立地のまちの将来像を考え、地域のコミュニティの発展のため避難所機能の重要性からも小学校建設に踏み切られていました。
ところがです。議会で議案として議論が行われたわけでもないのに、突然14名の議員が市長に中止を求める嘆願書を提出しました。建設するからと説明会を開き、市民を喜ばせていたのも束の間のこと、この3日後の判断であっさり中止を決断したという事態が起きました。想像すると、選挙前に「数の多い方に寄っておいた方が良いよ」というような結果を目の前に突きつけられた当時の市長は、独断で小学校建設の中止を選んだことになります。
その時中心となってブログ等で積極的に中止を働きかけていた当時の議員の一人は、自身のブログでこう言われていました。
👉市議ホームページ『既存の潮見小学校区の議員のブログ_2015年3月1日』
「新しく学校ができれば単学級になり既存の学校はなくなる。」そういう不安の声を議員が煽り、ご自身はどいう立場で判断して発言していたのでしょうか。このとき南芦屋浜地区に在住している議員はいませんでした。潮見区域に通うことになると遠距離通学を余儀なくされる多くの児童たちの通学に対する弊害はどうでもよかったのでしょうか。まさに議員の言動により、この地区の将来像を住民無視と言っていいぐらいに大きく変えられてしまいました。
ファミリー層を増やす基盤が崩れた
あれから8年が経過し、まちのおかれている状況を見るたび、通学に対する保護者の不安や不満の声を目の当たりにすると、当時の見解に私は矛盾を感じてなりません。過去に説明してきた行政や議員らの発言や市民意見など、すべてにおいて私は記録し覚えています。
そして、経過と見比べながら、これまでもっともらしく議員らが語ってきた過去の発言や現状との違い、データーとの差異、新たに起きている課題などを照らし合わせてつねに追及してきました。議員の自己主張を押し通した結果、まちづくりの将来像が大きく崩れたということが明らかに浮き彫りになってきています。
自分たちの行いに、一度もその責任を感じることはなかったのでしょうか。ブログで教育の本質と言っていたからには、どんな教育の本質に切り込んできたのかを示せるのであれば、過去から心配されていた懸念点は払拭されているはずです。
南芦屋浜地区の児童の保護者からは「荷物の重さや多さ」「熱中症など健康被害の不安」「集団登校でのトラブル」「不審者情報の多発」「大勢が渡る事を想定して建築されたわけではない橋」あらゆる通学に関する問題点を上げられています。それでも、見守りをやってきたのだから通学路の安全対策は万全だと突っぱねるということでしょうか。
その後、2018年に高潮浸水被害が起こり、この地区に避難所施設等の計画がまったくなされていなかったことが問題となり、改めて小学校の必要性が問われる事態が起こりました。あらゆる声を総合して私はつづく思いました。議員はその立場において、自己判断で多くの方を巻き添えにしていることをもっと自覚しないといけないのではないでしょうか。
明るい将来像を変えてまで、目先の自己の利益だけが得られればそれでいいわけがありません。そのために権力を使って言いわけがありません。JR再開発事業にしても結果は同じです。結局、議員の強固な主張がまちの成長を止め、これまで築き上げてきたものを平気で壊していることになったからです。