議事録を見て気がついたこと
過去の議会議事録をたどってみると、これまでの芦屋市議会の議決結果に共通することがあるのではないかということが3つありました。
- 議会・議員の力が強過ぎる
- 誰も分からない未来を悲観する
- 現状を重視し、変化を望まない
この傾向が悪いといっているのではありません。景観を守る取り組みなど受け継がれてきた固有の文化や、税収に恵まれている芦屋市の特殊性に起因するものと思っています。
ただ、自治体を取り巻く環境変化は著しく、今までのように前例に倣って行政運営する時代は過ぎ去り、自ら新たに前例を作り出す時代に突入しているのも事実です。
議会において多数派の数で決め込む決定が正しい判断のもとで行われていない傾向にあるとしたら、どのような弊害がおこるのか考えてみました。もしも、次のような感情が政策決定の中で働いているとしたら議会はどうなるでしょうか。
- あの会派が言うから賛成したくない
- あの議員や職員が気に食わないから議案は通させない
- あの支持者は自分に影響力があるから聞こう
- 市長やあの会派に実権を握らせてなるものか
ここで上げた4つは、絶対にこういう浅はかな理由で賛否を決めてはいけないという当たり前のことを言いました。議員の心の奥底にこういう考えがあるとしたら正しい議会運営を行っていないことになります。議員がこんな私情で市政を動かすこと自体、政策を公平に判断していないことを意味するからです。数の権力を振りかざして議会の決定を自由自在に操っていることになりかねませんし、そんな議会は好ましくありません。
こんなことでは議員が市民の代表であるという立場を利用しているだけにすぎず、市民に求められている真の行政サービスの提供ができるはずがありません。
市民・行政・議員のトライアングル
自治体において、首長と議員のどちらかの力加減が大きくならないために、二元代表制になっているのだと思います。また、市民の方がその中に入り3つのトライアングルになっているからこそ市民の不利益をつくらず、不条理だと感じることがないようにしているのではないでしょうか。このことからも、行政と議会はある意味で市政を正しく動かすために、チーム力で動かなければいけないと思っています。
しかし、議員の立場で議会の中に入り芦屋市議会を側で見ていると、最近は両輪という信頼関係を築きながら進めていないと感じることが多くあります。議会が行政に対して反発の姿勢ばかりを見せ続けていても市政が停滞するばかりです。
これではいつまでたっても行政が市民の方を向き、良識のある市政運営を目指して、先進的な施策など推し進めることはできるはずがありません。また、皆様からお預かりしている税金に付加価値をつけて、お返ししないといけない立場であるすべての公職員が、市民のためによりよいサービスを還元することがでていないという状態をつくりだしてしまっています。
民意を代表する議会と行政は両輪
活力のあるチーム力によって良識のある市民サービスを提供していけるはずです。しかし、そのような環境を導きだせていない議論が繰り返し行われているようでは、議会も行政からの信頼を大きく損ねていきます。そして、職員は萎縮し心が乱れたまま正常な行政機能までもが壊れてしまい、市政運営に大きな影響を及ぼすことになるのではないかと危惧しています。
芦屋市は、伊藤市長に代わり9人の議員が前期から入れ替わりました。新しい風がせっかく入ったのに、正直なところ前期よりも行政との関係性が悪くなっているように感じています。
私は、新しいメンバーが増えたことが影響していると言っているのではありません。ただ、新人議員は、期数を重ねた議員にくらべて知識と経験が浅い分、これまでの議会形式に流されやすくなる傾向にあると感じます。「これが当たり前のように慣例だ。」と言われればまず信じて従おうとするからです。疑問を持ったとしても、よほどの自信と勇気がなければ自分の判断と行動を鈍らせてしまうのではないでしょうか。
私は常に「おかしい」と感じた疑問を大切にしています。なぜなら、私が感じたその疑問はきっと市民目線だと自信を思っているからです。