正しい判断を活かせる議会にするために
新人議員の本音シリーズでは、私が芦屋市議会を見ていて「おかしくないのかな?」と疑問を投げかけたくなった時に書いてきました。それが私にとって嘘偽りない素直に感じた気持ちだから隠しようがありません。
ところで、どうしても「賛成」と「反対」にわかれなければいけない議会では、対決とか派閥とか権力争いなどという言葉をよく耳にすることがあるのですが、そのことについて考えてみました。
こんな場面に出くわします。議長など職責のある議員さんや期数を重ねたベテラン議員さんの発言に疑問を抱き、「それは間違っているのでは?」と私が思っていたところ、他にも同じ思いの議員さんがいたことがわかったとします。そのことについて発言の機会が訪れても、誰も指摘することはありませんでした。
そんな空気がただよう中、自分の思う意見を発言をしようとしても、発言者のいう事が場違いなことを言っているように、会議をまとめている議長や委員長が発言を遮ったり、論点をすり替えるような発言をしたり、そして周りで援護する方も現れるという状態になることがあります。
仮に、多数で口を揃えるとこんなことができるようになるのではないでしょうか。
- 何でも言い分が通りそれが正義として認められる
- 時にはルールで厳しく罰して、時にはルールを逸脱していても咎められない
- 賛否の結果を思い通りにさせることができる
ただ権力を持つことだけを考えて数で固まればこういう事が起こり、政策や議論の内容では正しく判断されなくなります。そんな議論なんの意味があるのでしょうか。
これまで、当たり前のようにこれが正しいと思わせてきた、もしくは思わされてきた人がいるとしたら、出来上がった組織の圧力から抜け出せない人もいるのかもしれません。
弱さからズルさを出したら誰であっても同類
そんな中でも、群れから外れると自分が何かされてしまうのではないかと、周りに流され自分の意見を控える人たちがいたとします。すぐに「何かされるかも?」という思考になるってどういういことなんでしょう。大勢集まれば少数の人を弱い者いじめできてしまうと思われているかと思いますが、怯えなければいけないようなことがあるってことなのでしょうか。
これが私のただの勘ぐりだとしても、市民に選ばれた方々が次のようなことをやっているようならば思うかですが
- 都合の悪いことは権力や立場を利用し隠す
- 誰かを陥れる思考になっている
- 陥れられるのが怖い思考になっている
- 強いものに対して、勇気を持って意見できないようになっている
というようなことでは、悲観的な考えを持ってしまう人が増えるのもわかる気がしました。何のために議員になったのか原点に返ることは常に大事だと思います。自分だけをよく見せることじゃなく、会派でくぐられず一人一人の議員としての判断が、とっても重要だと思います。
原点に立ち返って物事をしっかり判断して決めていき、他の人の意見もまず聞く姿勢が議員には求められているような気がします。
おかしいことをおかしいとは言えず、自分で判断できる勇気がないとしても、自分の意思を持たずに、ただ数の多いところに入り、誰かの意見のままに行動するという決め方だけはしていないことを願います。